糸の切れた操り人形のように、アイは投げ出された。
アイは勢い余って、ミサトの意図しない方向に飛び出していった。
アイは絨毯に落ち、頭をしたたか打った。
ミサトは舌打ちした。
頭を打った衝撃が、アイの脳みそを激しく揺さぶった。
それがアイにとって幸いしたのだ。
快感が、強い衝撃に遮られた。
「ごめんなさ〜〜〜い、ゴエナサ・・・イ・・」ソファの下から声が聞こえた。
アイは熱にうなされたように、繰り返した。
「ごめんなさ・・・ 」
そして気を失った。
ミサトはため息を漏らした。
どうやら、運良く壊れる寸前で帰ってきたようだ。
ミサトはアイを抱き上げ、ソファに寝かせた。
エアコンのリモコンを手にとる。
空調を調整すると、ミサトは汗だくになった制服を着替えるため、部屋をあとにした。
ぼろぼろにされたアイは口を開けたまま眠りに入った。
こういちさ〜ん。
アイは夢の中だった。
森の中をさまよっている夢だった。
こういち・・・
浩一の後ろ姿が見えた。 厚みはないが、うちわのように拡がった背中は間違えようがなかった。
その背中ごしに見える、堀の深い横顔に、どこか憂いがかった眼差しが、アイの心を奪ったのだ。
浩一には一目でハートを射抜かれてしまった。
運命の出会いを感じた。 ミサトがいぶかしむほど取り乱してしまったに違いない。
そして、初めてのミサトへの反目。
浩一が、ミサトのオモチャになるのを、おとなしく見ていられなかった。
ミサトも、おおいに考えるようになっているに違いない。
アイは、この仕事で、お払い箱にされる気がしていたのだ。
ミサトに捨てられる前に、浩一と逃げてやる、というのは、後からついた理由であって、アイの本心はまず浩一だった。
浩一は自分と逃げてくれるだろうか。
自分だけ逃げるのではないか。
こういち・・・
浩一は、アイに一度も振り返ることなく、走り出した。
アイも追いかけた。 浩一が自分から遠ざかる理由がわからないまま、走った。
浩一が、全裸で木立を走り抜けてゆく後ろ姿は、野生馬を思わせた。
アイの目が、浩一の背中を透かして、自分や家族を捨てた男の背中に焦点をあわせた。
アイは昔から同じ夢を何度もみた。
父に泣きながらすがっている場面だった。しかし、現実におこった過去の出来事ではない。アイの夢の中の思い出にすぎない。
アイの手が、玄関で、堅い靴に足を押し込んでいる父の上着をくしゃくしゃにして離さなかった。
「もう、おまえの父ではない」父はアイの手を掴むと、振り返らずに冷たい言葉を言いはなった。
その言葉は、アイの指先の感覚を奪った。 父の手は石のように冷たく堅かった。
父はアイに一瞥もくれず、玄関をでていった。
いままでの夢では、アイは体が動かなかったが、今日は動いた。
アイは裸足で父の後を追うことができた。
玄関から見える家の外には、女が父を待っていた。 よく知っている女だ。
ミサトだった。
ミサトが父を奪った。 「ちくしょ〜〜〜〜う!」アイはその場に立ちつくして大声をあげていた。
アイが気づくと、谷川がのぞき込んでいた。
その後ろに天井が見えた。
ベッドに寝かされていた。
どこか別の部屋らしい。
「気づいた」
谷川は医者くさい顔で、アイの額に冷たいおしぼりをあてていた。
どうしようもなく狡猾な男だが、アイには、何でも言いなりの間抜けな下僕だ。
浩一が手に入ったら、父の呪縛から解放される、そんな気持ちだった。
反対に浩一をミサトに奪われたら、悪夢が二つになる。浩一をミサトの好きにはさせたくなかった。
ミサトはたくさんのスタッフを従えている。勝とうと思わずに、逃げることが得策だろう。
使えるのはこの男しかいない。
自分とミサトの、どちらに従うだろう。
今ならまだ自分に忠誠を誓うだろう。
「谷川〜」アイは猫なで声をかけた。
「なにか?」ニヒルに流し目で答える。 いざ遊んでやると、これ以上ないほど卑屈になるのに、いつもこの調子である。
「ミサトお姉様の部屋から例の薬、とってこれない?」アイは谷川に一瞥もなく、天井に向かって尋ねた。
「・・・」返事がなかった。横目で表情を盗み見ると、谷川は無表情だった。
「ね?」アイが顔を向けると
「私なら・・・」と、谷川はか細い声で答えた。
鼻の下に汗をかいている。そして息の匂いで緊張が伺えた。
やはり頼りない。アイは情けなくなった。
「お願い」一押しが必要だろう。
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