転 男転がし

 蔦の生い茂る門の向こうには、屋敷へと向かって並木通りが緩やかなカーブを描いていた。

 庭園は雨上がりの木立の香りに囲まれ、フィトンを含んだ湿った空気は、肌にまとわりつくようだった。
 新緑から滴のしたたる音が、林の中に潜むセミたちの鳴き声にかき消されている。
 セミはどこにも姿を見せず、鳴き声だけが亡霊のような存在を主張した。
 夕闇迫る頃の灰色の雲は、炎に炙られたように赤銅色に燃えていた。

 鳴いているセミは雄達である。
 雌を引き寄せるには聴覚に訴えなければならない。
 より遠くまで届く鳴き声が有利である。
 雌を惹き付ける為、みな誰よりもぬきんでた鳴き声を競っていた。
 交配できないものは淘汰され、より高い能力を備えた個体がしのぎを削る世界である。

 しかし雌にアピールすることは、天敵にも同じである。
 それは、危険と表裏一体である。
 雄蝉たちは死の危険と隣り合わせに雌を求めていた。
 自然界では色恋そのものが命がけだった。

 その中に醜く歪んだ羽根を持つ一匹の雄蝉がいた。
 蟻の群れを払いながら、枯れかけた白樺の樹液で口に糊し、身繕いをしていた。
 歪んだ自分の羽根を丁寧に脚で撫でている。
 そうすることで羽根が真っ直ぐになるのを期待していたわけではないが。

 蝉は二十日を生きた。
 まだ雌と交配は交わしていない。
 寿命はとうに過ぎていた。
 今、鳴くのも叶わないほど衰弱していた。
 その体は、どこにいても蟻共がかぎつけてくるようになった。

 この雄蝉は、何世紀も前から繰り返されたこの種の、短い生涯を終えつつあった。

 まさかと思われるが、蝉は回想していた。
 今はその短い生涯のページを繰るように自分の羽を触っていた。

 今年は雌に突然変異が大量に生まれた。
 雌は大きく、どん欲だった。

 雄を次々と迎え、交尾は激しく、小さい雄は体液を吸われ絶命した。
 雌は種を受け付けず、ひたすら雄を貪るのだ。

 雄達は警戒した。
 気を付けろ、今年の雌に怪物が混じっている、と。 
 怪物は一匹ではなく、大量発生していた。
 
 地上に出るとき、嫌な予感がしたのだ。
 地上が例年になく暑くにぎやかであること。
 雄達は交配を果たそうとしたが、叶わなかった。
 雄の誰ひとつとして雌に受精できるものはいなかった。
 みな無念の思いで悲鳴をあげながら命枯れ、一足早い秋の落ち葉となる。

 雌は雄を引き寄せる特殊な能力を備えていた。
 雄を引き寄せる蛍光を発し、匂いで誘った。
 違う種類の蝉までが惹き付けられてゆく。
 あっという間に初夏の先発組は全滅にあった。

 地下の幼虫たちは地上に近づくのを見合わせようとさえ考えた。
 例年になり熱い日差しがジリジリと地面を炙り、地上に近い仲間が容赦なく炙り出されてゆく様を見て、地下深い所に逆戻りしてゆく幼虫もいた。 
 が、雌達は狡猾で、樹の上から強力なフェロモンのシロップを地上に降らせ、地面奥深くの幼虫までも次々と地上に誘い出した。
 
 しばらくして、幼虫だったこの蝉にも、周りの土から抗いがたい匂いが浸みてきた。

 暗い土の中でその匂いに包まれていると、もうどうにもならなかった。
 土をかきわけ、気が付くと自分は地上に出て脱皮していた。
 いや、させられてしまったというべきか。

 未熟な体が外気に触れ、ゆっくりと固まってゆく。
 もう地中には戻れない。
 蝉は覚悟を決めた。
 
 見えるようになった目に他の仲間の姿もあった。
 地下でよく交信した仲間達。
 小枝にしがみついた幼虫期の殻にぶら下がっている様は白い妖精のようだった。

 しわくちゃの羽根がゆっくりと拡がり色が通っていく。

 と、その白い妖精に大きな雌がかぶりついた。
 交尾の逆体勢を取り、盛んに卵管を震わせ始めた。

 同時に雄の柔らかい背中に、ストローのような口を突き通し、体液を吸い始めた。
 その雄ゼミは、雌に犯されながら体液を吸われこときれた。

 何が起こったのか理解できなかったが、次々と大きな雌ゼミが降り立ち、周りの仲間が次々と羽ばたく間もなく餌食とされた。

 地上は雌達の大食堂と化していた。

 蝉は神に祈ってみたのかもしれない。
 自分の順番が回ってくる前に、まだ柔らかい羽根を羽ばたかせ難を逃れた。
 おかげで羽根は歪んだまま、固まってしまった。
 歪んだ羽根ではまともな雌に相手にされなかった。
 生き残る力があったからこそ、歪んでしまったのに、雌の目には魅力に映らなかった。
 

 そうして、生き残って必死に子孫を残そうと交配の相手を求めて最後の日を過ぎてしまった。
 普通の雌が少ない。
 呼び寄せられてくるのは、あの怪物ばかりだ。
 重い独特の羽音でわかる。 蝉は即座に逃げた。
 あの雌蝉を見たら仲間に警告した。
 蝉たちの悲鳴が森をにぎやかな年にした。
  
 同じ種族なのに、雄を餌のように貪る。
 生き残った雄は必死に雌を探すが、いずれ怪物達の餌食となった。

 中には運良く普通の雌と交配出来る仲間がいる。
 今年の事情を知らず、怪物に捕らえられ、ただ吸い尽くされる仲間もいた。

 自分はどちらでもない結末を迎えようとしている。
 
 蝉は動けなくなる前にこの世界を一回りしようと、樹から離れた。
 蝉にはこの世界が人間の住まいの一部だとは知るはずもない。
 この蝉にとって、人間の広大な私有地が世界の全てだった。
 蝉の知る、この世界でもっとも大きな生物、人間。
 樹のように太い二本の脚で移動する生物。
 その人間のなわばりが、この壁で出来た大きな木。
 
 蝉には舘が大きな壁にしか見えない。
 壁の穴、窓から雄と雌の気配が感じられた。


 高台に立てられた洋風の館の二階の窓。 開け放たれた窓でレースのカーテンがチラチラ揺れている。
 暑さの侵入を拒んでいた窓は、先ほど黒い制服姿の女によって開け放たれた。


 蝉には窓から陽炎のようなよどんだ空気が見えた。
 雌の匂いが感じられた。
 あの怪物の、ではないが、同じ匂いを感じた。

 蝉は人間の雌の匂いに吸い寄せられるようにその窓に向かった。
 複眼の中に取り込まれた数百の風景が一つに統合され、一人の人間を捉えた。
 人間が二人いる。
 蝉はどんどん、窓に近づいた。


 匂いはどんどん強くなり、蝉は方向が曖昧になり、引き返す方向が分からなくなった。
 人間にこれほど近づいたのは初めてである。
 しかし、怖れはなかった。 死が間近に迫っている今、怖れる物はなかった。

 それよりも自分の衝動を激しく駆り立てる匂い。
 細胞を陶酔させる分子を放出する巨大な生物から逃れられなくなっていた。

 部屋に侵入した蝉はベッド傍の窓に掛けられたカーテンにそっと止まった。
 そして不運を呪った。
 たちまちトゲのある脚が、生地にからまり身動きできなくなった。

戻る 進む2003年7月27日更新部へ

メイド 魔性の快楽地獄