転 男転がし
藤崎アイはミサトに出会うまえ、本当にただの看護婦だった。
地方都市のはずれに金型の工房を営む父と、
元教師の母の間に生まれた。
四つ離れた姉がいた。
小さいながらも庭付きの屋根の下、両親の愛情のもと、すくすくと成長した
このまま平穏無事が続けば、そこそこの年頃に人を好きになり、結ばれ、結婚し、
家庭を築き、世間でいう幸せになっていたかもしれない。
しかし、人生には無情な牙を持つ野獣が潜んでいる。
虎のように藪の中に潜み、心を引き裂く爪を研いでいる。
誰がこの見えない野獣の獲物にされるかは、わからない。
この獣と出会っただけで、人生を狂わされる人間もいる。
この野獣に五体を爪で引き裂かれても、立ち直る人間もいる。
宗教では野獣は、「試練」と呼ばれた。
試練は、信仰心のない人間を、卑屈にさせ、醜く歪ませる。
信仰心のみが試練を粉々にうち砕く。
神でなくてもかまわない。信じる気持が有効な手段だった。
しかし、混沌とした昨今は、信仰心のない人間から大衆に広まり猛威をふるう。
その年の夏は、セミが異常発生した。
「不況」という猛獣が各地で猛威を振るいだした。
暑い夏の真っ盛りに、アイの家族も巻き込まれていった。
藤崎アイ、本名「太田アイ」、が中学にあがる前に父は取引先の倒産に巻き込まれ、借金で工房をつぶすことになった。
工房が倒産に陥ったとき、親戚、近所の人々は心から同情してくれているようだった。
これだけの人が同情してくれているのだから、太田アイはとても心強かった。
しかし、みんな具体的に救済の手を差し出す人はいない。
第一の試練がアイとその家族に爪を立てた。
アイは人の醜さをイヤというほど思い知ることになった。
友人、親戚は誰もお金を都合してくれなかったのだ。
見舞いに来ただけだった。 目的は別にあったのだ。
彼らは父の工房が順調だった頃、借金の申し出をしたが、父は断ったのだ。
これを逆恨みされた。
父は経営者とはいえ、決して贅沢が出来るほど儲かってはいなかった。
しかし、他人には信じてもらえず、ひがみややっかみをかけられた。
そんな彼らが自分達よりも困った状況に陥ったアイ達を一目見ようというのだ。
第二の試練が食らいついた。
債権の取り立ては残酷だ。
一家は住む家を失った。家族で旅行を楽しんだ車などは真っ先になくなった。
一からやり直すには力が足りなかった。
父は工房の再建に失敗し、失踪した。
遠くの温泉街で愛人と無理心中をした父が発見された。
父は少ない金品をまきあげられただけでなく、臓器も一部なくしていた。
保険金はアイ達一家の手元に渡らなかった。
それどころか、更に涙と借金にまみれ、惨めさが残された。
不幸の甘い香りに試練が群がる。
みな、一家の不幸を哀れみ、同情の声はかけるが、その表情はどこかウットリとだらしなく弛緩し、目を細めて見つめ返してくる眼差しを、アイは生涯忘れることはないだろう。
アイが成長した後も、最低の表情として何度も夢に出た。
同情する周囲の人達は、アイにふりかかった不幸で癒されるのだ。
みな、他人の不幸せを眺めて己の幸運をかみしめているのだ。
自分たちも哀れであるが、目の前のアイ達に哀れみをかけてやることで癒されていた。
少なくとも最悪ではないことを実感できるのだ。
自分はどん底に哀れではない、と。
自分たちをうらやんでくれる更に哀れな人間を身近に必要していた。
それが慰めになるのだ。
それを確固たる事実にするため、アイ達家族にやさしい言葉をかけるのだ。
哀れみをかけてやって、その上に自分たちの立場を確保する。
社会の底辺に蠢く敗者達の、誰もが陥る惨めな因果関係である。
それは目くそ、鼻くそを笑う、の世界だった。
一家の大黒柱を失ってからは崩壊は一気に進んだ。
一家は夜逃げ同然で離散した。
アイと姉は母方に身を寄せることとなった。
しばらくして母も失踪した。 アイは母方の両親に育てられた。
アイは母の実家の中学に編入した。
姉よりも成長が早く、容姿は年に似合わず大人びており、身の丈も他の女子の中にあって頭一つぬきんでいた。
多感な年齢に不幸が続いた為か、父親譲りの高い頬骨と角張った顎にくわえ無表情なので、人を寄せ付けない雰囲気があった。
アイは父親に似て寡黙で人見知りの激しい少女だった。
担任の教師が、いつも一人でいることが多く見受けられたと回想する。
アイはあえて人とのふれあいを避けるようにしていた。
アイは幼くして、人の歪んだ本性を知ったのだ。
誰もが笑顔の下で、傷つけていい相手を求める飢えた猛獣と繋がっていた。
猛獣は癒しを求めて母体の心を掻きむしる。
アイは人の歪んだ本性から目が離せない人間になっていた。
目を逸らしたらつけ込まれるのだ。
大人びた外見でジッと睨まれると気の強い男子もひるんだ。
それはアイがイジメに遭わない為に出来る精一杯の虚栄だった。
しかし、それが周りの生徒にとって充分過ぎる盾となった。
くわえて爆発しやすい性格が周囲を怖れさせた。
普段は寡黙で、教室や屋上の片隅で本を読んでいるが、ちょっとした些細なきっかけで男子顔負けの暴力性を発揮した。
それは恐怖の裏返し。心に刻まれた人間の本性に対する憎しみでもあった。
ほんの偶然から、アイの体格に感心した陸上部の顧問が入部を勧めた。
クラブ活動がアイを癒してくれたに違いない。
夜遅くまで暗いグランドにトンボをかける姿をみて教職員は安堵し、そう思った。
しかし、相変わらず同年代の友達は出来ず、家庭の事情で一人でいることが多かった。
家庭は借金の返済もあるうえ、アイは成績もかんばしくなく、公立への進学は難しかった。
進学をあきらめかけていたが、働きに出るようになった姉の助けもあって、看護婦養成専門の高等学校に入学できた。
しかし、その姉が自殺した。
巡り合わせが悪かったのだろう。 人間関係で何か悩みを抱えていたようだった。
その頃からアイは辛いことがあると、プツリと神経が断たれたような無感覚に陥った。
(可哀相なアイ、)と、離れて自分をみていることで心の崩壊を免れた。
高校生になったアイはみるみる性的特徴が顕著に現れ、とりわけその肢体に男は目を見張った。
しかし、その表情は硬く、あまり笑わず、綱渡りをしているような緊張感が張り付いていた。
クラブ活動は陸上競技を選んだ。
長距離走が好きだった。
前を走っている他人を追い越し、引き離すのは快感だった。
全身に精気が行き渡り、脳内に快楽物質が分泌される。
走っていると、ハイになった。
自分の後ろを走る他人の醜く歪んだ顔からたまらない優越感がわき起こり、アイは癒された。
このときだけは無表情な顔に笑顔が浮かんだ。
部活で走っている時が唯一の安らぎだった。
部活は大切な時間だった。
家計を助けるため、アイは夜遅くまで学校に内緒で部活の後にアルバイトに精を出した。
出来るだけ走っていたいので、バイトは短時間で充分稼げる仕事を見つけた。
短時間で効率よく、しかも学校にばれずにヤルなら「ウル」のがいい。
そう同年代の子の話を耳にしていたが、その通りだった。
親に内緒、即金とくれば、迷ってはいられない。
アイは無感覚になることで、何の苦もなく男の欲望にその身を投げ与えた。
卒業するころには都会へ移り住むに足りる蓄えさえ得た。